乃木将軍は無能ではない

というわけで、乃木神社参拝記念に、今村均大将が読売新聞に投稿*1した「乃木将軍は無能ではない」を掲載しておきましょう。

眼病を得て近来暫く読書の楽しみから道ざかっていたが、別冊文芸春秋第百号に掲載された司馬遼太郎氏の「要塞」だけは読み返すこと数度であった。司馬氏は新しい観点から乃本希典将軍の軍事能力を熱心に研究され、これを率直に評論されている。熟読すると、司馬氏は乃木将軍に対し相当の敬意なり善意なりをもってこの作品を執筆されていることは疑いない。しかし、乃木将軍を精神主義者、文人としては偉大ではあるが、反面、幾個所かに「将軍は軍事能力は皆無であった」という文字が見える点で、いささか私なりの意見を述べてみたい。
私は日露戦争には従軍しておらず、旅順には戦史研究のため三回視察に行っているに過ぎないが、陸軍大学校の学生時代から、司馬氏同様の観点によって将軍の戦術能力を批判する声をしばしば聞いており、また参謀本部に勤務していた当時、私の同僚で大天才とうたわれた藤室大尉がその著「武将論」の中で、「武将の国家民族に負う最大の責務は戦勝を獲得することであり、どんなに人格の高潔な武人でも、敗戦を招いたのでは祖国の忠臣とは言い得ない。この点から考え、旅順攻略の武勲は、多く児玉源太郎大将に帰せらるべきものである」と、述べているところは、司馬氏の論と同一であった。
しかし私の研究では、旅順攻略であのような大損害をこうむらしめたのは、主として参謀本部の不適切な処置に原因しているのであり、この点は司馬氏も同様に書かれておられるが、それまでの経緯に対する解釈が異なっている。
司馬氏は、将軍が明治十九年三十九歳でドイツに留学したさい、将軍の関心事はあくまで教育であり、精神美の追求であり、要塞と要塞攻撃に対する研究はなかったようであった、と記述されておられる。ここで私の身内の話を持ち出すのは恐縮だが、私の妻の父に千田登文という者がいる。千田は例の軍旗事件の当事者河原林少尉戦死のあとを受け、連隊旗手になった者であるが、後日常々私に次のように語っていた。
「乃木将軍は野戦には長じておられ、ドイツに留学するさいも、野戦を研究してこい、といわれておもむいたもので、要塞戦はあまり得手でもなく、その研究もしてこなかった」
当時要塞戦の研究が進んでいたのはフランスであったから、要塞戦の研究がテーマであったなら、将軍もフランスに留学されたはずである。現に、当時やはり参謀本部にあり要塞戦の権威であった工兵出身の上原勇作少将(後の大将、元帥)は、フランスで要塞戦を六年間研究しておられた。だから、乃木将軍が要塞攻撃にきわ立った成果をあげ得なかったといって直ちに、無能である、というのは当たらない。
また、乃木将軍は常にその司令部を後方に置いていたから第一線の状況がつかみにくかったのではないか、と司馬氏はいわれておられる。が、この位置は伊地知参謀長が決定したことで、将軍自身の意志により後方にえらばれたものではあるまい。旅順攻撃中にも将軍はしばしば、危険を恐れず第一線を巡視していることからいっても容易に察せられる。
次に、肉弾攻撃によって多大の犠牲を生ぜしめている点であるが、当時の陸軍首脳部の多くは旅順をもって堅固な要塞とはみず、野戦同様に戦えるものとみており、現に「強襲をもって一挙に旅順をほふれ」と肉弾攻撃を要求しており、伊地知参謀長がこれを諒として作戦を立てている以上、たとえ将軍が途中でその非に気付いたとしても容易に訂正はしにくかったであろう、とのことは軍司令官として戦ってきた私の経験からいっても、そう了解される。かつての陸軍のよくない伝統であったが、軍司令官が参謀長の作ってきた計画を否としてやり直しを命ずることは、むしろ避けなければならないというような風習があったから、乃木将軍はなんらかの契機がない以上、そのままにしておくほかはなかったのであろう。その契機が児玉大将の来訪であった。司馬氏も書かれている児玉総参謀長と乃木将軍との洞穴内の会談では、乃木将軍は何もかくさず、同郷の後輩である児玉大将に対し、自己の所感を語ったことは想像できる。さすれば二〇三高地の攻撃を容易ならしめる砲兵陣地の移動にしても、乃木将軍の意見は入っていない、とはいい切れない。
以上、私の思うところをしるしてきたが、終りに当たって、前述の上原元帥が私に対して語られた言葉を引用してこの小文を結びたい。
「旅順攻略のことで、乃木大将と児玉大将とを比較するのは間違いだ。児玉大将と伊地知少将との比較はされるが、あんなに多くの死傷者を生ぜしめながら衆心一致最後まで戦い通させたのは、やはり乃木将軍の武徳のいたしたところだよ」
戦略、戦術に長ずることは勿論軍司令官に必須の条件ではある。が、この部下の衆心一致を得る点も、軍司令官の能力を評論する場合欠かしてはならぬことと私は理解しているのである。

ついでにもう一つ、森赳中将(本日が命日)の陸大教官時代の意見も載せておきましょう。

「(乃木大将を)馬鹿者呼ばわりをする者の方が馬鹿である」
「軍首脳部が官僚化してしまえば、軍事知識も軍情報も低能化してしまい、その結果は知るべきのみというのが旅順攻略失敗の教訓であった。勇戦敢闘も空しく幾万の霊魂が今なお旅順の空を彷徨っていることを忘れるな」

昭和14年二〇三高地に於ける講義にて。

*1:昭和42年