8月10日の日記・海軍反省会

「平和」とか「反戦」とかいった言葉が嘲笑されるようになって随分になる。これは「平和を嗤う俺は現実主義者」という一種の中二病だろうから、そろそろ一周して元に戻ってくれんかなというようなことを、昨日のNHKスペシャル「海軍反省会」を見ながら考えた。

追記・本日の海軍反省会第二回を見て

私は海軍に関しては門外漢だが、何となく記憶の隅に引っかかるものを感じて、探したところ、中央公論の『歴史と人物』のバックナンバーに鳥巣建之助氏の文章があった。何でも買っておくものだ。

特四内火艇と相前後して、○九金物、別称「震海」という特攻兵器が考案、試作されていた。この試作兵器の審議会が呉工廠で行なわれることになった前日、私は大浦崎の工場をたずね、実物を検分した。一見して、とても使いものにならぬと直感した。南海に棲息する大海亀そっくりの恰好をした代物であった。
テストパイロットの若い中尉に「どうかね」とたずねてみた。彼はスピードのおそいこと、操縦装置が重く、運動性能がわるく、外圧の影響を受けることが大で潮流の早い狭水道通過など極めて困難であること、敵艦の底にたどりつくことも容易ではあるまいと言うのである。私も全く同感であった。またしてもこんな兵器を潜水艦に運ばせようと考えている軍令部に対し、怒リさえ感じた。
次の日、大本営から、この兵器に最も熱心な軍令部第二部長黒島少将が出張してきた。
工廠の製作担当官説明のあと、作戦に使用する側の六艦隊に意見を求められた。そこで私は、二、三の理由を述べ、要するに役に立つとは思えないので、艦隊としては採用反対であると明言した。
オールマイティを自任し、意のままに兵備を左右してきた大本営は、意外の反撃に怒りを発したようである。黒島少将は色をなして立ち上がり、戦局の急迫などを述べていたが、その中に″国賊″という言葉が飛び出した。私は国賊呼ばわりされたのであった。
だが結局、この兵器は日の目を見なかった。

また中沢中将の戦後の講演会については深堀道義氏*1の『特攻の総括』に次の一文があった。

さて、中沢氏が昭和42年に「丸」誌に書いた記事、すなわち四者会談と及川総長が「決して命じて下さるな」と言った事がポイントになっているが、これがその後の特攻研究家の著述のバイブルのようになってしまっている。
最初に中沢氏の創作ではないかとの疑問をもたれたのは、昭和52年7月に同氏が水交会で講演した時の事である。
「飛行機による体当り攻撃は、大西中将が比島で採用したのが最初で、それまで海軍中央部は、そうした動きは一切なかった」と語ったからであった。
海兵74期妹尾作太男氏が「10月1日に桜花の七二一空が開隊しているのに、軍令部がそれと知らないとは考えられぬ」と質問したところ、中沢佑氏が十分間絶句し、その講演会はそのままお開きになったという経緯があった。中沢氏はその半年後に死去されるが、とうとう何の返答も無かったという出来事であった。

*1:菅原道大息