伊藤博文の戦略

現代史資料「大本営」より

政略に関することばかりでなく、自ら任ずる厚き伊藤首相は、大本営会議において忌憚なく戦略を論じて、陸海軍幕僚と激論を闘わしたことさえあった。二十七年十二月四日、伊藤が「威海衛を衛き、台湾を略すべき方略」を大本営に提出し、軍部一部の主張した第一軍は奉天を屠った後南転して北京を衝き、第二軍は山海関を攻略して天津を陥れ、両軍相呼応すべしという論を退け

清国の海軍未だ撃滅せざるに、かかる策は無謀であるばかりでなく、若し幸に目的を達するも、清朝を瓦解せしめ、列国の干渉を惹起するばかりである。そんな危険な手段をとらないで、威海衛を攻略して敵の死命を制し、また台湾を攻略して他日講和の要求に備へるが上策である。

と主張し、樺山軍令部長と激論を闘わしたということである。事実戦局は伊藤首相の方略によって進められた。

このときは伊藤の意見を尊重した川上操六も、それでも清国が手を上げなかった場合の第二期作戦では、直隷平野を衝くつもりだった。征清大総督府を設立したのはそのためである。