相撲を見る眼

尾崎士郎は清水川という関取に入れ込んでいた。清水川は酒色におぼれて一度協会を追放されたが、父親の命と引き換えに協会に復帰したという力士だった。尾崎はこの清水川に惚れ込み、ことあるごとに清水川大関論を書いて、若い頃の彼の素行を問題にする評論家たちに立ち向かった。土俵人格論という奴である。そんなに好きなら、一度会ってみたらと周りの人は勧めたが、彼は「贔屓の真髄は土俵にあらわれた力士の進境に正しい認識を持つことである。私は個人的な好意に溺れたくない」といかめしい理屈を並び立て、これを拒んだ。

事実はそれどころではない。土俵に立つ清水川の顔を正面からしっかり見極めることができないほど私の愛着は堪えきれぬものになっていた。胸がはずむ、息が切れる。彼の一挙一動がことごとく私の心に反映して、いつの間にか虚しい幻影が私の生活の中へ滅入りこんできた。忘れもせぬ、昭和九年の夏場所、清水川の人気は絶頂を極めていた。その場所の八日目にいたって、連日通いつめた私の感情は高潮に達した。この日の彼の敵は制覇の業ようやく成らんとする玉錦である。実力と条件において彼等はすでに互角であった。七日間土つかずの横綱大関の決戦である。

アッー!

いよいよ清水川と玉錦だ。場内はたちまちしいんとひきしまった。咳の音が、遠くから聞えてくるほどの不気味なしずけさである。玉錦を呼び、清水川を呼ぶ声もなかった。仕切りが進むにつれて二つの肉体が一つのかたちに溶けこんできた。一瞬間、地の底を流れるようなつめたさが場内を圧した。誰の心もこの世の中におけるもっとも美しきものを眺めようとする念願にふるえているようである。私の眼には涙があふれてきた。涙はふいてもふいてもあふれてくる。相撲を見はじめてから二十年間、こんなにぴったりと調和した土俵を見たことはない。それほど二人の力士の顔は明るく安らかな感情に落ちついている。もはや衒気もなければ虚勢もなく、唯、高まろうとする一念に凝りかたまった無心な姿だけが私の眼にくっきりと映った。立ちあがった、と見るうちに土俵は私の視野の中で曇ってきた。とたんにひとすじの黒煙りが土俵をかすめてさっと流れた。私の見たのは唯それだけである。一気に土俵際まで寄り進んだ玉錦の巨体が、大きく虚空に半円を描いて倒れたのはそのすぐあとであった。

尾崎は代表作『人生劇場』の執筆にかかった。

彼の上手が利いたときは、私の仕事の上でも鮮やかな上手投がきまるのである。彼の土俵に直面している私は、息が苦しく、咽喉が乾いて、手に汗握るどころのさわぎではない。
ほとんど正視することのできない思いで、横に坐っている人の声なぞはまったく耳に入らなかった。

清水川も昭和12年に引退した。昭和26年春場所、中入り前優勝旗の返還を何気なく見ていた尾崎は、旗を担いで登場したのがいつもとは違う男であることに気づいた。その男は恐らく年寄だろう。大柄でねずみ色の背広を着ていた。

洋服姿の男の顔は優勝旗のかげにかくれて見えなかったが、彼が土俵に片足をかけようとしたとき、だしぬけに彼の顔が私の真正面にうかびあがった。とたんに私は、われ知らず、どきっとして眼を瞠った。
「おう、清水川」−と、私は覚えず声を張りあげるところだった。過ぎし日の名力士清水川なのである。膝においた私の握りこぶしには次第に汗がにじんできた。私は今まで、こんなに近々と彼の顔と向い合ったことは一ペんもない。彼が、その年の検査役の選挙に落ちて、平年寄になっているということは聞いていたが、こういう役割で、優勝旗をかついで出てくるということは夢にも想像しなかった。今は瞬きをする余裕もない。私はじっと彼の顔を見つめていた。眉が太く、顔の輪郭は昔ながらの古風な武士を思わせるような形を残してはいるが、どこかに、老衰のかげが酒やけのした、たるんだ頬の上にうかんでいる。現役の頃の、凛としてひきしまった風貌ではない。彼の役目は土俵に立っている紋服姿の取締に優勝旗をわたすだけのことであるが、身体や手のこなし方が何となくぎごちないのは、そういう仕事に馴れていないからでもあろう。私の胸は急に乾からびたように、きゅうんと締めつけられた。かつて私が彼の土俵と運命を共にしようと心ひそかに誓った清水川なのである。情熱を相撲に煩けてすごした十年間の思い出がキラキラとひらめくように私の眼の前を通りすぎた。その輝くばかりの光彩にあふれた記憶の中からぬけだした清水川が、今、平年寄として今日の役目をはたすために優勝旗をかついで私の眼の前に立っているのである。

汚い作家だなあ

昭和三十一年、五月十八日、五月場所のはじまろうとする二日前である。この日は私にとって忘るることのできない「思い出」の日になった。

雑誌の仲介で、30年目にして初めて尾崎は、追手風親方(元大関清水川)と会い、彼の後援会を作ることとなった。

相撲を見る眼

相撲を見る眼