白崎秀雄

白崎秀雄の『当世畸人伝』を電車の中で読み返していたけど、やっぱり面白い。不世出の天才柔道家アベケンもいいけど、春秋園事件が原因で悲運の死を遂げた大関大ノ里萬助もいい。勢いで尾崎士郎の『相撲を見る眼』も図書館で借りてきたけど、これも面白い。見たことのある力士なんて誰一人いないのに、それでも面白い。

昭和三十年ごろ、福井市より上京した白崎は日本評論社に職を得、見習記者として働くうちに、進歩的文化人を批判して、平和論争を巻きおこしていた福田恆存と知己になり、その影響もあって、新かなづかいは日本文化を破壊するものであるとの見解を一層強め、ほとんどの著書を許される限り旧かなづかいで刊行した。自然、読者層は狭まり、それはたちまち購買数の減少となって現れた。しかし白崎は全く意に介さない。わかる人だけに読んでもらえばいいと泰然自若の構えを崩さなかった。不器用な人だった。
新かなづかいで義務教育を受けたわたくしは、父の考え方を到底理解することができなかった。なんという時代遅れもはなはだしい、コチコチの頑固オヤジなんだろう。少しでも売れるものを書いて家族を潤してくれればいいのにと、歯がゆい父親への苛立ちは、時折口にも出した。そんな時、父は、
「きっといつか、お父さんが死んでしまって、しばらくしてから、お父さんがしてきた仕事が理解できるようになるよ」
と繰り返すばかりだった。
わたくしにとって「作家」とは、ベストセラー作家だった。雑誌の巻頭カラーページを華々しく飾ったり、テレビでコメンテーターになったりする人々である。白崎を作家として知るわたくしの学生時代の友人は、ひとりもなかった。
小学校に上がったばかりの頃、どこかへ行きたいとねだると、父はわたくしを連れて寄席にでかけた。わたくしの落胆は云うまでもない。「どうだ。おもしろかったろう」と、帰りの電車の中で何度もわたくしに問いただした父を、うるさく思ったことをよく覚えている。子のこころは往々にして父の思いもよらぬところにある。わたくしはサラリーマンの父親たちが、今様でスマートに見え、父がサラリーマンだったらなぁといつも考えていた。

 本書元版を刊行した折、白崎がある友人に一冊を贈呈すると、しばらくして礼状が届いた。その友人は「長谷川祐次」編にふれ、祐次が奉公先から外泊を許されるようになり、家で待つ妹や弟のために、いただいた小遣いをはたいて餡の入っていない木村屋のパンを買う。祐次は家に近づくと、山桐の重い下駄をここぞとばかり高々と踏み鳴らしたという一節を引き、その下駄の音が耳元に鳴り響き、しばらくは次ぎに進めなかったと書き送ってきた。白崎は、その礼状を何度となく、家人に読んで聞かせ、そのたびにだらしなく泣いた。
 昭和六十三年十一月、本書の一編「長尾よね」が舞台化され、『夢の宴』と題して帝国劇場で上演された。長尾よね役の森光子の名演技が大向うをうならせ、千秋楽には大入り袋がふるまわれた。
「脚本と俳優がいいから」と話していた白崎は終始機嫌がよかった。
 一日、家人を連れて観劇した折のことである。舞台は長尾よねが、GHQからの逮捕令を聞いた芦田伸介扮する公爵近衛文麿に青酸カリを手渡すシーンにさしかかった。
「お殿様」
よねは、自宅荻外荘に戻ろうとする近衛に、人目を憚りながら声をかけ、歩みよる。涙を押さえながら差し出したよねの手には、服毒自殺のための青酸カリが握られていた。張り詰めた冷たい空から十二月の早い雪が舞い落ちていく。帝国劇場の中は時が止まったかのように誰ひとり微動だもせず、一心に舞台の上のよねを見つめる。
「モリッ!」
突然、二階席から低い男の声がかかった。その声に勢いがついたかのように、森光子の演技はいよいよ光彩を放つ。ようやくにして青酸カリを近衛に手渡すと、よねは力つき、よろめき、慟哭する。
「モリッ。にっぽんいち!」
再び感極まった男の声が、沈黙を破った。
わたくしたちはその声の主が、先刻席をはずした白崎のものであることに気づき、恥ずかしさのあまり身を縮めた。森光子も、まさか原作者が声をかけていたとは思いもよらなかったであろう。

「『当世畸人伝』と父白崎秀雄」より