軍務局長斬殺

岩田礼(元毎日新聞記者)『軍務局長斬殺 相沢事件★二・二六事件の導火線』図書出版社
これは先ごろの古本まつりで購入した一冊。それまでこの本の存在自体全く知らなかった。こういう発見があるから古本まつりは良い。

山口県徳山市に於いて新見英夫元大佐がその人生の最晩年を過ごしていることを知った著者は、新見氏に会いに行く。しかし彼はもう人と話ができる状態ではなかった。新見元大佐は間もなく亡くなるが、彼が死の床でうわごとのように、「オレが閣下を殺した」と何度も繰り返したということを、彼の夫人から聞いた著者は、相沢事件にのめりこんでいく。尤も新見は既に亡く、著者の相手をするのはもっぱら新見夫人と彼の後輩の諏訪与平元憲兵大佐であった。メインの語り部は当然諏訪である。彼は良くも悪くも憲兵的思考の持ち主で、誰でも彼でもを派閥に分けるのは、あまり感心しないが、それでもなかなか興味深いことを語っている。

相沢三郎中佐による永田鉄山殺害の状況については、不振な点がある。新見大佐は第一回の証人尋問では、軍事課長室につながる扉のそばの書類箱に書類を置いて、机に戻ろうと振り向いたときに、一軍人が抜刀を大上段に構えて局長に向かい、局長は手を上げて防ぐ形をしていたと供述している。しかし第二回の尋問では、第一回尋問での答えは記憶違いであったから訂正するとし、改めて初めて相沢中佐に気づいたときの状況を述べている。それによると、新見は局長の前の机で、書類の整理をしていたところ、何か音がしたので顔を上げると、局長が自分の回転椅子から二、三歩の処で手を上げて防ぐ形をしており、それに対して一軍人が軍刀を振り上げているのを見たとのことだ。新見は夢中で相沢の腰に飛びついたが、剛勇相沢はこれを振り切り、逃げる永田に止めをさした。記憶の混乱というのは十分有り得ることだが、気がついたときには、相沢は第一撃を永田に浴びせる直前であったという点は共通している。相沢は部屋に入ると同時に抜刀したと供述しているが、それにしても気づくのがやや遅いように感じる。
IMG_001.jpg↑南↓北
この点について著者は最後にひとつの答えを、新見のかかりつけ医から得ている。新見は軍人になる前から視野狭窄だったのだ。目は軍人にとって最も大事な器官である。恐らく新見は、そのハンデを隠しながら軍務についてきたのだろう。相沢が自分の横を通り抜けても気がつかなかったというのはそのせいと思われる。目のことを隠すために、一回目の聴取では、振り向いたときに相沢に気づいたと虚偽の証言をしたのだ。「オレが閣下を殺した」といううわごとは、そういったことへの後悔からきているのであろう。

もう一つの疑問点は、新見の同行者山田長三郎大佐の所在である。山田は証人尋問に対し、軍事課長(橋本群)を呼ぶために立ったときに、自分の背後を右側へ向かって誰かが通るのを感じたが、属官か何かだろうと思い、局長室の北側のドアから軍事課長室に行き、そこで居合わせていた森田範正徴募課長と1、2分話をしていたが、物音がしたので局長室との間のドアを開けると、局長が倒れていたとしている。取調官が、北側のドアにつくまでの間に、相沢の兇行に気づかなかったのかという質問には、自分は平素から大股で歩くので(相沢が斬りつける前に隣の部屋に入った)と答えている。

相沢自身は尋問に対し、部屋には局長以外に二人の軍人が居たと供述している。この点は、自分の後ろを誰か(相沢)が通るのと感じながら、隣へ行ったという山田の証言と一応矛盾はしていない。ただ相沢は、永田を斬って部屋を出るとき、「相沢、相沢」と呼ぶ山田の声を聞いたと言っている。二人は同郷で、前から顔見知りではあった。山田は相沢を呼んだことは否定している。それにしても、上司に斬りかかろうとする侵入者と入れ違いに隣の部屋に行く図というのは、客観的にはなかなかシュールだ。

ところが、隣の部屋にいた橋本と森田の第一回証人聴取での証言は、山田の証言を真っ向から否定するものであった。二人とも、事件が起こる前に山田が橋本を呼びに来なかったかという質問に、「来たようには思いませぬ」と答えている。つまり相沢が斬りかかる直前に軍事課長室に入り、永田が斬られている最中は、森田と話をしていたという山田の証言は、本人に否定されたのである。また橋本は、物音がするので局長室との間のドア(南側)を開けたところ、軍刀が閃くのが見えたので、とっさにドアを閉じた、もう一度開けて局長室に入ると、背の高い軍人が軍刀を鞘に納める様な姿勢で西の方へ向かっているのが見えたと証言し、森田は局長室に山田が居るのを見たと証言している。

森田の聴取は8月15日であったが、証言内容を知った山田は、その日の午後に森田を訪ね、自分は兇行の際、軍事課長室に橋本を呼びに行き、そのとき森田とも挨拶をしたと述べた。森田は第二回の聴取でそのことを述べ、よく考えると局長室へ行く途中に山田と会ったような気がすると、証言を変更した。しかし、局長室の異変を知って向かう途中なので、挨拶をする余裕は無かった筈だとも述べている。10秒、20秒が大事な問題だけに、この辺の食い違いはちょっと問題である。

橋本も第二回の聴取で、自分の記憶は薄弱であるから、山田大佐が自分を迎えに来たというならそうではないかと、証言を変えている。尤も第一回の陳述は事件直後で記憶も十分であったときのものなので、自分としては前回の陳述に間違いがあるとは思わないとも述べている。

さて新見大佐はどう答えているかというと、彼は一貫して山田大佐は、兇行の前に橋本軍事課長を呼びに行ったため、そのとき部屋には居なかったと証言している。しかし息子には、山田はついたてのところで、「相沢よせ、よせ」と叫んでいた、多分山田大佐はトチメンボウをくってうろうろしていたのではないかと語っているそうだ。新見の聴取は森田らの後で行われたので、或いは森田同様、山田大佐の訪問を受けていたかも知れないが、彼は聴取に際し、そのようなことはおくびにも出していない。

聴取に際して山田は隣の部屋に居たと答えた新見すらも、内々にはこのように語っているとすれば、山田が局長室に居たのは確定的であろう。諏訪氏は、山田は皇道派に近く永田と折り合いが悪かったと言っているが、仮にそれが事実としても、それが彼の行動に何か影響を与えたというのは穿ち過ぎだと思う。ただ彼は咄嗟のことに対応できず、おろおろしていたのだろう。諏訪氏はまた、橋本も皇道派であったとして、当時永田は軍事課長室に逃げようとしたが、ドアが開かなかったことについて、これは橋本が内側から抑えていたのだという噂があったとも言っている。しかし橋本が皇道派という話も、私はこれ以外聞いたことが無い。

事件後、村中孝次川島陸相への手紙で、非武士的行為で国軍の威信を失墜させた新見と山田を馘首せよと書いている。当然、永田の死を悼む統制派サイドからの風当たりもきつかった。山田は兵本附にまわされ、永田の百日祭が終わると、自宅で自決した。新見は京都憲兵隊長に転任し、そこで予備役となった。橋本と森田の二人はノモンハン事件で共に待命となった。