森戸事件と興国同志会の分裂

中谷武世『昭和動乱期の回想』

中谷 当時の「日の会」、前身の興国同志会、それと吉野作造博士が中心の新人会が東大内の学生団体として対立しておった。妙なもので新人会の出身者がそれぞれ後の社会主義政党の指導者になりましたね。そして興国同志会、「日の会」の先輩が後の保守党、今の自民党の指導者になっている。

 私のクラスで社会主義のほうにいったのは三輪寿壮、あれは私の一高時代からの非常な親友の一人で、大学にいって後は彼は新人会に入るし、私は上杉さんの木曜会に入る、これはその後の興国同志会になったわけだけれども、そこで社会とか国家に対する考え方は三輪君と私とは大分違ったんだけれども、しかし彼の死ぬまで交友をつづけたもっとも親しい友人の一人でした。今言われるように、大学の先生では吉野先生と上杉先生、美濃部先生は学生運動に関係はしなかった。

中谷 関係しなかったですね。それで興国同志会が分裂した動機は御承知のように森戸辰男事件で、これは今日の対談の準備に、念の為め一応調べて参りましたが、森戸辰男事件というのは、「大正九年、一九二〇年の一月に東大経済学部の森戸辰男助教授が、経済学部の機関誌の『経済学研究』の創刊号に『クロポトキンの社会思想の研究』という論文を載せた、ところが、この論文は危険思想の宣伝であるということで、上杉一派からクレームが出て、これを大学が取り上げて、結局森戸助教授は朝憲紊乱罪で起訴され、雑誌の名義人である大内兵衛助教授は休職を命ぜられ、公判の結果森戸は社会の安寧秩序を乱すものとして禁錮三ヵ月、罰金七十円の刑に処せられ、大内は禁錮一ヵ月罰金二十円を科せられた」とこういう事件だったわけです。これにはいわゆる進歩主義的文化団体や著作組合、学者団体等の反発を呼んで、言論の自由を圧迫するものだという反対運動が起こった。そして上杉博士の興国同志会の内部でも上杉さんの考え方に異論が出て分裂騒ぎにまで発展した、ということなんてすが、当時渦中に居られた先生からその真相というものを承りたいと思います。

 あの時、問題になった森戸君の論文は、主として私有財産制に関する経済思想が紹介されておったのです。それで、われわれの考えている民族主義だとか、あるいは日本の国体問題ということとには直接関係はないじゃないか、そういうことについては、自由な意見の発表というのが、もちろん許されていいのだということ、そういうことから言って、国体に関する問題だとか、あるいは民族の伝統についてわれわれの考えと違うというのなら、これは大いに批判しなけばならないけれども、社会主義の研究や、理論的な意味において私有財産制度なんかを論ずるのは一向差支えないじゃないか。今の私有財産制度は、無論我々も絶対のものとは思わない、そういうものに関しての研究なり論議なりは自由でいいじゃないか、それをまで圧迫するということは不合理だ、ということで、上杉博士やその周囲の人達とは我々は大いに意見が違い、到底一緒にやって行けない、ということで、興国同志会を解消して「日の会」を作ることになったわけです。それに森戸辰男という人の人柄が我々の仲間にも好感を持たれておったということもあります。大内君に対してはそうでもなかったが・・・・。だからそういうことで森戸を告発したり、圧迫したりするという立場は我々は取らん、というのが私共の考え方で、それに対しあくまでも追求しようという一派と、我々と意見が合わなかったというわけです。

中谷 上杉先生は学問の点では、岸先生に非常に嘱望されて、大学に残れと言われたこともあるやに承っておりますが、思想的には必ずしもついて行けなかったというわけですね。上杉直系で森戸事件について最も強硬論だったのは、天野辰夫君たちですか。

 天野辰夫君だな一番強かったのは。後に内務省の役人や司法官になった連中はやっぱり天野君に引っ張られたわけです。四高の小原君あたりも強いほうだったね。

昭和50年11月21日岸事務所での対談
小原=小原直? 天野辰夫は神兵隊事件などで有名

追記

小原直は四高じゃないし(一高) 年も離れすぎだから違うね