日本陸軍とアジア政策・陸軍大将宇都宮太郎日記3(感想1)

1918(大正七)年
この年の宇都宮の現職は大阪の第四師団長。

三月八日 金 曇
 村岡大佐へ頼みありし池袋師範には未だ学歴書も願書も出して無きとの事にて、寿満子よりの請求により大急にて両人の学歴書二通を送る。初め心配を頼みしは昨年十一月中のことにて、学歴書を送りしは二月四日なりしに、此始末とは能々他人の頼に為さざることを今更ながら感ぜしめり。愚痴は兎に角、此度転学の成否は両児の将来に影響すること尠少ならざるなり。

村岡長太郎は宇都宮の親しい後輩の一人で、このとき教育総監部の課長として東京に居た関係から、子供(徳馬ら)の転校手続きを頼んでいたが、それがほったらかしにされていたことが判明。妻に怒られて慌てて書類を提出したが、、、

七月十二日 金 風雨
 上原大将より、井戸川を東京に都合付かざるにより、余が朝鮮軍司令官たると仮定して同人を平壌に遣りては如何、至急返電との文通あり。且つ出兵も遷延せしが漸くにして変形して不実実行の運と為れりと付記しあり。
 井戸川に付ては「デカセギデキソウナトコロヘ、シカラサレバ、ヘイゼウ」と返電。同時に東京に置くこと不可能ならば今度の出兵に出れそうの師団に配属し度、それも未定等にて不可能ならば、平壌可然との書状を発す。

上原の腹心で、宇都宮とも親しい井戸川辰三の進退について相談された。井戸川はこのとき近歩三の聯隊長だったが、次の定期異動で東京を離れることになりそうなので、それならいっそ宇都宮と一緒に朝鮮に行かせてはどうかと言われ、宇都宮は、シベリアへ出兵しそうな師団がベターだが、それが無理なら一緒に連れて行こうと返している。

七月二十四日 水 晴
 本日朝鮮軍司令官拝命の旨発表せらる。普通の順序より言へば柴五郎之に任じ、余は東京衛戌総督が順番なり。其顛倒せる所は当路多少の手心を見る。併し朝鮮の軍司令官も要するに一閑職に過ぎずして、一年前后の後には軍事参議官に転補せられ、其儘年齢満限を待つ身となり、終に葬り去らるるが普通なり。井口省吾然り、秋山好古然り、松川敏胤亦た然りと為す。独り特別の因縁ある長谷川好道の参謀総長と為り、安東貞美の台湾総督と為りしは例外と為さざる可らず。尤も此両人も駐剳軍司令官より直に前記の官職に就きしにはあらずして、長谷川も一時は軍事参議官と為り、安東は一時待命と為りしかと記億す。興味あるは余今後の運命なり。

前から噂になっていたことだが、此度の定期異動で宇都宮は朝鮮軍司令官に親補された。前述の井戸川も同時に少将に進み、朝鮮の旅団長に補された。順番からいえば、朝鮮軍司令官は先輩の柴五郎が先なのだが、上原などの差し金でこれが入れ替わったように考えている。しかし朝鮮軍司令官もまた閑職には違いなく、過去の軍司令官たちも長谷川安東貞美を除けば、皆その後軍事参議官となり、そのまま引退したと書いている。長谷川はまさにこのときの朝鮮総督であった。安東は寺内正毅と比較的親しかったそうだ。
ところで柴は、宇都宮の書くとおり、この少し前に東京衛戍総督というド閑職に就いているが、この補職もいわく付きであった。柴は第12師団長からの転補であったが、これはこの師団がシベリアへ出兵することとなったので、長州の大井成元にその栄誉を与えるために、柴を追っ払った人事だと世人は見た。しかし結果からいえば、シベリア出兵になど関わらず、柴もその武名を汚さずに済んでよかったのではないか。

八月十四日 水 晴
 午前、司令部内巡視。井戸川少将、司令部に来訪。午后一時半、長谷川総督の帯同にて、児島憲兵〔隊〕司令官、内野、井戸川両少将と共に昌徳官に李王並妃両殿下に拝謁、親しく御言等あり。去る大正二年、初めて拝謁の際とは余程の相異にて、一層御健勝に拝せられたり。夫れより徳寿宮に李太王殿下に拝謁す。初めての謁見なり。噂の如く世才に長けさせられたるものの如く、言語応対仲々に御老練なりき。太王は朝鮮〔服〕を召され、王は我軍服、妃は朝鮮婦人服を召させられたり。

太王というのは高宗のこと。