昭和十年代の陸軍と政治・第4章

第4章 林内閣の組閣 ― 梅津次官と石原派中堅幕僚の抗争
林銑十郎には、浅原健三という私設秘書がいました。浅原は有名な労働運動家であり、元無産政党の代議士でしたが、森恪に気に入られ、その紹介で陸軍に近付き、林の側近に収まっていました。森は、陸軍で話せるのは石原莞爾小畑敏四郎だと浅原に語り、彼に石原と会うよう薦めました。森に薦められ石原と会った浅原は、すぐに意気投合しました。林を担いだのは、民間ではこの浅原と宮崎正義、そして興中公司十河信二、陸軍サイドでは石原のほかに軍務局長の磯谷廉介片倉衷といった人々でした。十河が組閣参謀長として、四谷の組閣本部に入りました。彼は書記官長に就任する予定でした。別に石原たちは林を尊敬していた訳ではありませんでした。むしろ逆に、自分たちの思うままに操りやすいと考えてこれを推し、宇垣を潰したのです。

他に、林には白上祐吉という弟がいました。彼は汚職で逮捕されたことがある札付きでした。林は陸軍大臣時代、この弟の逮捕を理由に、大臣を辞職するしないで、一騒動起こしたことがあります。白上は四高の同窓生の大橋八郎や河田烈を味方に、石原派に対抗しました。

更にもう一派、アムンゼンとスコットの争いに割ってはいる白瀬矗の如く、この両派の争いに介入していたのが、平沼騏一郎の手先の政治浪人成田努でした。平沼は、自分が辞退したおかげで林にお鉢が回ったのだから、自分には組閣に口を出す権利があると考えていたようです。しかし成田は、海軍大臣に小林省三郎を要求したことで林の憤激を買い、組閣本部から追放されました。小林は、米内光政が「小林は海軍の黒星付きだから」と反対していました。

組閣本部は以上三派に政治浪人や報道陣も含め、数百の人でケイオスでした。十河は、林を二階に上げて、それらの人々から隔離しようと努めましたが、林は便所に行く振りをして、いつの間にかこっそり下に降り、彼等と会っていました。

石原派の一番の要求は、板垣征四郎関東軍参謀長の陸軍大臣起用(万已むを得ざるときは杉山元でも可)でした。それに対する寺内寿一の回答は、三長官会議の決定で中村孝太郎を推薦するというものでした。林は、中村は同郷だから遠慮したいと、弱弱しく拒否しますが、今時同郷とかは問題ではないとばっさりやられ、一旦組閣本部に戻りました。林の報告を聞いた十河は、自ら寺内を尋ねました。寺内は十河に、杉山、中村、小磯の三人の候補がいたが、杉山、小磯は三月事件に関係が有るので、適任者は中村しかいないと説明しました。そして板垣は若すぎて全軍の統制には不適任であると、十河の要求を斥けました。

このとき寺内は「杉山、中村、小磯」の三人が候補であったと十河に言いました。しかしほんの10日前の宇垣の組閣時は、「杉山、中村、香月」が候補でした。筆者はここに注目し、とにかく何が何でも中村を候補にするために、三月事件に無関係の香月を小磯に入れ替える詐術を用いたと述べています。中村推しと板垣反対には当然梅津美治郎次官の強い意志が働いていました。

以下は浅原の評伝『反逆の獅子』に載っている話ですが、十河の報告を聞いた石原は、もう一度林を寺内の元へやるように言い、一方で寺内を梅津と引き離して缶詰にするよう、磯谷に連絡しました。磯谷は軍務局課員を引き連れて陸相官邸に乗り込み、寺内を取り囲んで板垣陸相を認めるよう迫りました。この異様な行動に驚いた寺内は

「軍務局長は陸軍大臣の命に服しないか」

と大声を出しましたが、磯谷は

「服しません」

と答えたそうです。

所が林のほうは、もうこの頃板垣陸相に対する熱意を失っており、それより自分の組閣を第一に考えるようになっていました。組閣本部での十河への風当たりも強くなっており、岩田愛之助などは、

「十河は林内閣を毒殺するんだろう。今日中に組閣本部から退かなければ殺す」

と言っていたそうです。また林自身、ひそかに憲兵隊の大谷敬二郎に連絡し、十河の処遇についてアドバイスを受けています。大谷に語った

陸軍大臣だって誰でもつとまる。三長官の推す中村君で結構なのだ」

というのが、彼の本音でした。

そのような状態で、林は寺内に会うため組閣本部を出発しますが、彼は真っ直ぐ陸相の元へは向かいませんでした。慌てた十河らが憲兵に頼んで探したところ、林は閑院宮邸に居ました。林の後をつけていた記者からこの情報をつかんだ松村秀逸は、官邸の玄関に近い部屋で一人でストーブにあたっていた梅津に報告しました。梅津は、林が閑院宮にすがって板垣陸相を通そうとしていると判断し、

「陰謀だ。よくわかった」

とすぐに立ち上がって部屋を出ました。その後、梅津の指示で、秘書官が別当の稲垣中将に電話で会談の内容を確かめたところ、単なる挨拶であったという答えでした。

しかし陸相官邸から帰ってきた林は、十河に対し、

「宮様から三長官会議の決定をなぜ素直にうけないのかとえらく叱られた。自分は陸軍出身だから宮様の御意見にそむくわけにはいかないのだ」

と内話しました。それを聞いた十河は

「宮様が出て来ては万事終わりである」

と感じたのだそうです。この点について筆者は、林は石原派を振り払うために宮様の権威を利用したのではないか、つまり実際叱られたかどうかは別にして、「叱られ」ることが目的で(閑院宮邸に)行ったのではないかと考察しています。これは梅津の観測とは逆ですが、非常に面白い考察だと思います。

翌日改めて陸相からの電話で、中村陸相が正式に決定すると、十河と浅原は組閣本部を離れました。書記官長には大橋がなりました。浅原の報告を聞いた片倉は

「林に欺かれた。よし!たたきつぶす」

と怒鳴ってアジトを出て行きましたが、その周りには憲兵の姿がありました。石原は、民間人の浅原と宮崎を陸軍省参謀本部の代表として、二人に絶縁状を持たせて、林のところへ挨拶に行かせました。車に乗り込む浅原に、石原はこう言ったそうです。

「はっきりと縁を切って、林内閣はつぶす。そう明言しておいた方がいいですよ」

組閣の成った後梅津は、「片倉少佐のやったことはけしからん」と怒り、皆の意見を聞きましたが、皆が片倉を支持するので「皆がそういうなら私の言ったことは取り消す。しかし君のやったことには同意しない」と述べるにとどまり、片倉への処分はありませんでした。

【感想】
閑院宮邸に寄ったのは、板垣板垣としつこい十河を振り切るための”林自身の”陰謀ではないかという筆者の考察は、なかなか面白く、林なら有り得ると思わせます。そこで思い出すのが、深酒で体を壊した荒木陸相の後任に真崎を据えるため、教育総監だった林と陸軍次官の柳川が閑院総長宮を訪れたときの話です。宮様が、「真崎は嫌だ、林お前がやれ」と怒ったため、これには真崎命の柳川もどうすることもできず、林が陸相となりました。まさかこれまでも、宮様の真崎嫌いを計算に入れた林の策謀とは思いませんが、案外この件がヒントになっているかも知れませんね。林は解散総選挙で敗れて僅か4ヶ月で桂冠しますが、これは建川美次や小林省三郎に唆されたものであると河野恒吉は書いています。

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