【朝日新聞】相沢中佐公判記録

朝日新聞大阪版2月27日朝刊より

 相沢中佐は陸軍部内の皇道派の急進派で、事件直前まで広島県福山市の歩兵第四十一連隊に所属。台湾への転出が決まっていたが、赴任前に上京して事件を起こした。
 資料は全15回分の公判記録をとじた230ページのファイルで、東京の憲兵司令部から旧満州国新京市(現・長春市)にあった関東軍憲兵隊司令部に送られた。当時の司令官は後に首相となる東条英機で、決裁欄に「東条」の印が残る。戦後、同司令部の庭に埋められていたのが見つかり、吉林省當案館が保存していた。
 相沢事件の公判は原則公開のもと、36年1月28日から2・26事件前日まで計10回聞かれた。事件後、完全非公開で同年4月22日に再開され、同年5月7日の第15回公判で死刑が言い渡された。
 文書によると、相沢中佐は犯行の動機を、「自分カ決行セハ悪イ者ハ皆悔悟シテ新シキ世ノ中トナル」(2月4日第4回公判)と供述。「官民一体トナリテ大御心(天皇の心)ニ副ヒ奉リナハ昭和維新ハ招来スルモノト思料ス」(2月6日第5回公判)などと説明し、天皇周辺や軍内部から財閥や政党の影響を排除するよう訴えている。
 第10回公判までの弁護は、陸軍大学校教官の満井佐吉中佐や、法曹界国家主義運動の中心的存在だった鵜沢総明・貴族院議員が担当した。
 2月25日午後、満井中佐の弁論は3時間に及んだ。「今ヤ農村ノ負債ハ60億(円)以上ニ達シ然モ農村一人ノ所得収入ハ年平均百八十円内外(物価指数の比較で現在の11万円程度に相当)」と述べ、多くの兵の出身地である農村の困窮を強調。 「是等兵卒ノ直接教育ニ任シアル青年将校カ農村救済ノ革新的念願ヲ生スルコトハ必然的」としたうえで、「危局ヲ打解スル為メニハコノ行詰リノ『癌』タル大財閥ノ独専支配ヲ廃シ国家全体本位ノ経営ニ入ルヘキナリ」などと論じた。
 中断後初の第11回公判は、2・26事件の青年将校を裁く特設軍法会議の初公判の5日前の36年4月22日だった。相沢中佐は永田軍務局長について 「陸軍大臣補佐ノ責任乏シキコト」「青年将校ノ会合ヲ禁止セルコト」の理由で殺害を決意したなど改めて供述。一方で皇道派の真崎甚三郎大将は
「実ニ尊イ方テ皇軍中今後不世出ノ人格者テアル」と称賛したと記した。
 結審した5月2日の第14回公判。弁護人による弁論の後、裁判長から言いたいことがないかと問われた相沢中佐は「尊皇絶対ノ信念ニハ変リナク益々皇室ノ弥栄ヲ析リマス」と述べ、涙を流しながら手記を朗読したと書かれている。
 当局側の記録としては、36年と38年に作られた内務省警保局の部外秘資料があるが、今回の資料より簡略だった。

他に須崎愼一教授が、(相沢中佐が)意外に冷静だとコメントを寄せている。同教授に関しては、『二・二六事件青年将校の意識と心理』は大変良かったのだが、藤原書店の『二・二六事件とは何だったのか』は案外な内容でがっかりしたものだ。