神がかり参謀

棚橋信元『神がかり参謀ー神々は生きているー』
最初に断っておきますが棚橋信元と棚橋茂雄は同一人物です。

参謀本部部員時代以来、神がかりといえば、アイツだ、神様のことならアイツの所へ行け、というわけであった。私自身は、あたりまえのつもりでやっていたが、他から見ると、少々イカレタへんな野郎に見えたらしい。最近も、陸士時代の同期生から「貴公はソ満の国境築城をつくる時『神様の命令だ!この線にトウチカを作れ』と、手をひろげて、指示したそうじゃないか?」と、質問されてアキレた。(自序より)

棚橋の父は特務曹長であった。術科がまったく駄目で「こんにゃく特サ」などというありがたくないあだ名を頂戴していたが、非常に頭が良く、書記として重宝されていた。しかし大正元年に予備役となる。元来体が弱かったこともあったが、妻が大隊長婦人のところに「にほいがけ」行き、大隊長の心証を害したことも原因の一つであった。棚橋の母は熱心な天理教信者で、家のものは何から何まで寄進する人であった。日露戦争中、父は俸給を家に送っていたが、帰ってきたら貯金は一銭もなかったという。紋付を作ると、いつの間にかそれを天理教の先生が着ている。子供のお年玉まで取り上げる、で、棚橋も随分母親に歯向かって喧嘩をしたが、父は半ば諦めてお供えに協力していた。天理教というと私は芹沢光治良の『人間の運命』くらいしか知らないが、昔の天理教というのは確かにこういうところがあったらしい。

大正10年、大垣中学の2年から、父の勧めで幼年学校に進んだ。幼年学校3年のとき、延期してきた二人の生徒が同窓となった。一人はこのブログで散々取り上げている宇都宮太郎の長男の徳馬。無精髭を伸ばし、両手をポケットに突っ込んで、右肩を上げ背伸びしながら歩いていた。誰も彼を名前では呼ばず、徳馬をなまって「トンマ」と呼んでいた。彼はその後左傾化して退学処分を受ける。もう一人は鶴見少将の息子で、体はどこも悪くないのだが、逆立ちの練習ばかりして勉強を全然しないので、落第したという。彼は陸士に進んでからも逆立ちばかりしており、遂には逆立ちで階段を上り下りしたり、生徒舎の天辺で逆立ちができるようになった。

陸士に進み席を並べた高橋という男は、軟文学の愛好者で、変な小説を持ち込み、こっそりそれを読んでさっぱり勉強しない。区隊長から指導するように依頼された棚橋が注意すると「俺は趣味を完成してから勉強する」と答えて、好きな通りにやり通した。彼は自他共に認めるオカマのオーソリティーで、都城の歩兵連隊での隊附時代に、特務曹長のオカマをホッタという評判が高かった。いつも同期や下級生の美少年の尻を品定めし「アイツはいいとか悪いとか・・・アイツはやられているとかいないとか」と説明し、逆に棚橋に悪い教育を施そうとしてたようだ。後年、彼と逆立ち名人が揃って幼年学校の生徒監になったので、「貴様達が生徒監とは、恐れ入ったよ」と冷やかすと、「俺たちは悪事の裏の裏まで知っていいるから、抜け穴ふさぎがうまく、却って立派な教育ができる」と盛んにほらをふいていた。

中尉のとき、哲理姓名学の先生に出会い、すぐに自ら改名に及ぶとともに、月俸の半分を差し出して弟子入りした。後に中隊長に着任すると、早々に中隊の幹部全員を改名させた。彼によれば改名した名前を熱心に使っていた人々は重傷を負っても命は助かったが、「こんな古くさい名前はいやです」といって使用しなかった曹長は戦死したという。

大受験の前に同期生が集まって勉強会をしたが、同期のトップだった竹嶌継夫だけは出てこなかった。合否発表後、東幼出身者だけが当時の生徒監の家に集まったが、その席で棚橋(合格)は竹嶌(不合格)と言い争いになり、「表に出ろ」と腕をまくったところで一同に仲裁された。棚橋は同じく合格した豊橋教導学校の区隊長桃井義一に、「貴様、豊橋に帰ったらあいつを説得してくれ。このままではとんでもない人間になってしまう」と頼んだ。桃井も引き受けて帰ったが、翌1月、陸大で顔を合わせると、「あいつは鼻息が荒くて、俺の言うことなどてんで聞きやしない。折角貴様に頼まれたのに目的を果たせず申し訳ない」と謝られた。この一月後の二・二六事件で竹嶌は刑死した。棚橋は陸大を4番で卒業し恩賜の軍刀を頂いた。

類は友を呼ぶというのか、棚橋の中隊には、体が「ブルブルッ」と震えるとなんでも分かるという深尾という少尉がいた。「戦争に役に立つか」と聞くと、随分役に立ったというので、早速彼は少尉の師匠にあたる山本という先生に弟子入りし、その神占について学んだ。支那事変で第三師団にも動員が下令されたとき、二人はビールを飲んで話し合っていた。早速神占を頼むと、

  1. 部隊は応急動員となる
  2. 上海附近に敵前上陸する
  3. 敵前上陸は完全に成功する
  4. 戦地では風邪をひくくらいでたいしたことはない
  5. 三ヶ月で内地へ転勤となる
聯隊に帰ると本動員だという。「あれ、神様はうそをついたかな」と思っていると、師団参謀長がやってきて第二大隊だけ応急動員となると伝えた。彼の中隊は先遣隊として呉淞に上陸し、上海の激戦を戦い抜き、棚橋自身は途中聯隊副官に転任し、11月に参謀本部附となって帰国する。以下100ページに渡り、前線に出てこないにも関わらず無謀な突撃命令ばかり出す師団参謀に苦しめられながらの苦闘の様が描かれている。勿論途中、霊感の強い一等兵の神占によって敵の十五榴の位置を割り出し、これを破壊したというような話も出てくるが、そういうのを差し引いても中々貴重な記録だと思う。

参謀本部に着任した棚橋は、戦訓の講演で師団参謀に悪態をつきまくったため、彼を参本からほうり出してやると息巻く人もいた。昭和14年1月、服部卓四郎と共に視察で徳安へ向かったとき、パイロットが三度にわたって間違えて敵の飛行場に着陸しようとする椿事があったが、いつもは寝ている棚橋が、このときに限って起きて地図を見ていたので、パイロットをどやしつけてことなきを得た。

昭和13年の夏に、「日米はいずれ戦争になり、日本は負ける」との天啓を受けた棚橋は、居ても立っても居られなくなり、合気道の師匠の植芝盛平に訴えた。植芝に「しっかりやってください」と激励された棚橋は、対米工作を開始する。この工作は、途中棚橋の訪独(山下軍事視察団)を挟んで開戦まで続いた。工作の内容は、日米合資の貿易会社をつくり、日本は約20億ドルの物資を米国から輸入、また米国が希望する日本占領地下の物資を輸出するというもの。これによって日米間の感情を融和し、一方で蒋介石に回す物資を日本が買ってしまうことで、蒋の抗戦意識をくじき、これと和平するという算段。民間でこれに協力して金を出したのは西川末吉という人物であった。西川はかつて、田中義一に政治資金を貸したことで有名な神戸の高利貸し乾新兵衛の側近だった。他、この工作に関わったのは

民間側
 交渉の全責任者(米国との交渉主任)
  西川末吉(昭和二十年死亡)
 日本政府との交渉主任
  大川周明(昭和三十二年死亡)
 西川の米国派遣交渉員
  小島儀太郎(死亡)
 西川秘書
  水口浩太郎(一時米国へ派遣)
  満所信太郎(小島実弟)
 西川の金融関係支援者
  広瀬安太郎(野村信託専務)
  岸本 勇(野村信託監査役
 陸軍大臣板垣大将との連絡者
  瀬川弥右ェ門(貴族院議員)
 西川に協力した主な民間人
  八田嘉明(元鉄道大臣)
  宮田光雄(貴族院議員、元警視総監)
  実川時次郎(政治浪人)
参謀本部
 主として工作に任じた者(上司諒解)
  棚橋茂雄大
 私の直属上官である歴代の第三課長
  綾部橘樹大佐(後中将)
  那須雄大佐(後兵務局長)
  美山要蔵大佐
 第八課長(謀略課)
  臼井茂樹大佐(後飛行隊長として、ビルマで戦死)
 総務部長(第二部長を兼ね、第八課長の直属上官)
  神田正種中将
 参謀総長
  閑院元帥宮
  杉山 元大将
 米国駐在大使館附武官
  山内正文中将
 米国駐在大使館附武官補佐官
  山本林吾中佐
陸軍省
 兵務課長(後局長、陸軍大臣の密名を受けていた)
  田中隆吉大佐
米国側支援者
 ロスアンゼルス・タイムズ社長
  ハリー・チャンドラー

工作は当然ながら各方面から反対を受けた。特に軍事課長であった岩畔豪雄は徹底的に反対して、妨害してきたという。欧米課の本流にいた杉田一次は戦後、この工作はFBIの謀略ではなかったかと書いている。

第三軍参謀時代、たまたま野戦築城隊に師匠の甥の山本兵長がいるのを見付け、彼を当番兵にして官舎に住まわせ、戦況を占っては関東軍大本営に申し送っていた。その後、第十四方面軍参謀としてレイテに派遣される直前に病気となり、レイテ行きは中止となる。病が癒えると第二十三軍参謀として田中久一将軍に仕えた。棚橋によれば、田中は至誠の将軍で人格は高潔、軍紀に厳しく戦犯に問われるいわれはなかったが、桂林作戦でやられた張発奎の私怨により処刑されたという。

終戦の直後、大本営で、ビルマから帰ってきたばかりの岩畔と偶々顔を合わせた棚橋は、

「岩畔さん!どうです!私の判断が的中し、私が勝ったでしょう。今だから申しますが、私の信仰する神様が、この敗戦を、霊感で、私に直接御示し下さったから、あの工作に、あんなに、熱中したのですよ!」
と、申したところ
「ほんとに、君が勝ったなあ・・・・・。」

と岩畔は嘆声を発した。

戦後、棚橋は少し商売をやったがすぐに失敗したため、神道の布教を始め、昭和28年「独立せよ」の神示を受けて平和教を開教。昭和34年にこの本を書いたという次第。

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