香月清司中将について(4)

<宇垣の知遇を得る>
香月が陸軍省が示した宇垣内閣の陸相候補の一人であったことは既に書いたが、実は宇垣陣営の意中の人も香月であった。宇垣の腹心である林弥三吉は宇垣に次のような手紙を送っている。

小生の考にては香月中将を以て唯一の候補者と存居り候。同中将とは「現役軍人政治に干与すへからす」との意見に於て預てより一致致居り、過般の拙著に対しても絶賛し居り候。特に現提出予算の厖大極まるものなることに就ても全然同感に有之候。・・・若し杉山又は板垣の如きものを出せば純然たる軍人フアツシヨの世となり・・・・(昭和12年1月24日)

林は大楠公の研究者として知られた人物だが、軍人の政治不干与にも一家言あり、昭和11年には『文武権の限界と其の運用』という本を出している。文中の”拙著”というのはそれを指しているのだろう。彼が宇垣大命拝辞の当日に、重大声明を読み上げ陸軍を痛烈に攻撃したことは既に書いた。当の香月は当時演習で千葉にいた。後に彼は宇垣に対し、自分は一切(陸相就任の)打診を受けていないと申し開きをしている(渡邊行男の本にも載っている話だが、原典が思い出せない)。今井田清徳(宇垣の組閣参謀)が千葉まで会いに行ったという話もあるので、鵜呑みにも出来ないんだが。第一軍司令官を解任され帰国した香月は、宇垣に挨拶に行っている。二人の閲歴を見ると、同じ職場にいたことは殆ど無いが、そこそこの知り合いではあったようだ。


<宇垣の幕下に入る>
予備役となった香月は本格的に宇垣陣営の人になった。彼の役目は東京に於ける宇垣の情報係といったところか。宇垣を擁立する動きは、あの流産以降も続いていた。いやむしろ香月のような新たな宇垣ファンが増えていた。かつて六郷橋で宇垣の車を止めた中島今朝吾も、泣いて自己の不明を詫びたという(泣いたというのは田中隆吉が書いていることなので事実かどうかは知らない)。真崎甚三郎ですらも「此時世を救うものは宇垣閣下以外になし」と言っている。さて平沼内閣の後継争いは阿部信行(かつての宇垣の次官)を推す陸軍の勝利となったが、このときも吉田茂を中心に林中将や山路一善海軍中将らが、宇垣擁立運動を激しく展開していた。恐らく香月もこれに加わっていたはずで、阿部に決まった後には宇垣に対し、次のような手紙を出している。

軍部之飽なき反抗工作と無気力なる元老之糊塗策に禍ひせられて、遂にまた今回之如き情なき落着と相成り候事は現情国家之為誠に寒心に不堪る処に御座候。・・・・小生また御指示に従つて最善之努力を尽し犬馬之労に可報候。(昭和14年8月29日)

その阿部内閣が倒れると再び宇垣陣営は、次期首班を目指して工作を開始した。香月はまず侍従長の百武三郎海軍大将を訪ね、宇垣に対する好感触を得ている。そして次のような手紙を書いた。

先には御下命により百武閣下に情報を持参種々御話を承り候処、此方面は殆んど御懸念を要せざる段之良況に有之様に被察申候。・・・・是非共今回は全日本の第一流之猛者を傘下に集められ、前人未到之強力猛勇之内閣を御準備被下度・・・(昭和15年1月6日)

更に陸軍大臣畑俊六を訪ね、協力を求めている。畑の兄はかつて宇垣が自分の後継者にと考えていた人物だけに、宇垣陣営では、宇垣内閣の陸相には畑を据えるつもりであったようだ。しかし畑は陸軍の反宇垣感情の強さを訴え、

自分とし(て)は心外に思うが何とも致し方なし。(昭和15年1月10日)

と言うのみであった。このとき陸軍の意中の人は近衛文麿であったが、武藤章の政治参謀であった矢次一夫だけは、杉山元を首班とし武藤を現役のまま書記官長とする軍部内閣を夢見て策動しており、武藤を困らせていた。結局このときは米内に大命が下った。香月は

さて今回も遂に御期待に遠かり残念此事に御座候。・・・・遠からさる裡に陸海軍政党等之間に三ツ巴の騒動を引起す事は必然かと愚考罷在候。此上て遂に遂に閣下の前に叩頭し来る日も決して遠からさる事と確信罷在候。・・・(昭和15年1月15日)

との手紙を送っている。また昭和16年11月21日には東條への大命降下の内情や開戦準備について相当詳しい情報を送っている。中々良い情報源を持っていたようだ。


<終戦工作>
香月は引き続き宇垣幕下として近衛らの終戦工作にも関わっている。細川日記にはちらほら彼の名前で出てくる。

車中公は「昨夜荒木、小畑、吉田等に会ったが、香月は駄目だと云っていた。酒井は頭が断然よいし、香月の上だ。而し酒井は柳川が亡くなったから、宇垣に行くだろうと皆見ていた」と。柳川中将は吉浜にて狭心症にて急逝された由。(昭和20年1月24日)

公というのは近衛のことである。酒井は酒井鎬次。『戦うクレマンソー内閣』を日本語訳したりと学究肌の軍人で、近衛らの信頼も厚かった。日本最初の機械化兵団独立混成第一旅団の初代旅団長であったが、そのとき関東軍参謀長であった東條英機と作戦を巡って諍いになった。柳川平助と親しかったのは間違いないが、荒木や小畑らとはそれほどでもなかったのか。話は恐らくは陸相候補の事だと思う。更に酒井の提出した内閣案について細川が富田健治と話し合っているときにも香月の名前は出てくる。

従来此戦争に従事したる軍部にては収拾の力なきを以て、是に代る軍部たる真崎・小畑、宇垣・香月、石原の三派の中の何れか、又は三者の連合を以て事に処せざるを得ず。然るに石原は天才なれど一面信じ難く、宇垣、香月は酒井氏が推薦するも、或は事に臨んで断乎実行するや否や、一点疑問を存す。又真崎は人物に於て信用なし。然らば狭量のそしりありと雖も小畑を陸相となし、香月、石原を夫々適所に起用しては如何。(昭和20年3月2日)

いつのまにか、宇垣陣営において”真崎に対する小畑”のような立場にまでなっていることが分かる。しかし近衛陣営はやはり小畑に対する評価が高い。そして細川の鑑識眼は中々面白い。

以上で香月については終わります。無名の軍人とはいえ探せば結構いろいろなエピソードがあるものですね。これからもうちはこういうニッチ産業で行きますw