香月清司中将について(2)

<第一軍司令官を更迭さる>
支那方面軍参謀長岡部直三郎の日記には、腰の定まらない参謀本部と積極果敢に進出したがる隷下軍の間に挟まって苦心している様がよく出ている。特に第一軍と方面軍司令部の間はしっくりいっていなかった。(ここで北支那方面軍にチェックを入れ、日付を1937年の9月以降にして”GO”してみてください。戦闘序列が見れます)

第一軍は方面軍が第一軍司令官の権限を犯し、細部に干渉し過ぎると悪感を抱きあり(十一月八日)

第一軍は兵団使用について方面軍が口を出してくることを非常に嫌った。岡部はこれに対し、心得違いも甚だしい、困ったものだと嘆いている。そして、司令部に呼びつけて啓蒙しても良いのだが、香月軍司令官の性格上、容易に己の意思を翻さざるべく、自分との間で論争になって事態が余計に悪化する可能性があるので、暫く放置すると決定している。

第一軍は十二月上旬第百八師団を観城附近に進むべく、発令せりという。第一軍の事情はさることながら、確かに方面軍命令違反なり。(十一月二十五日)

これに関して岡部は悩んだ末、第一軍の新企図は、一時的前進にして、目的を達せば、原位置に復帰するものにして、必ずしも命令違反なりとやかましくいう必要なきものとの結論に達し、黙認することとした。

匪賊討伐のために第一軍から兵力を差し出すよう命令したところ、

第一軍は、折返し討伐用兵力の差出しに応ずる気配なし。・・・・花谷参謀が第一軍第一課に於いて感知せし処によれば、根源は軍司令官にあるが如し(二月十四日)

さすがにこれは黙認できない。しかし参謀長以下にはなるべく汚点をつけたくないとの配慮から、参謀長を呼びつけて謝罪をさせることにした。
しかし、

第一軍参謀長飯田少将と会談。約二時間半会談せるも飯田少将は、自己の非を認めず。(三月二十二日)

以下、長々と飯田祥二郎の主張とそれに対する岡部自身の反駁が綴られている。頑固に非を認めない飯田に手を焼いた岡部は、彼を方面軍司令官の寺内寿一大将の前に連れて行った。しかし飯田は寺内の前でも一向に態度を変えない。連れて行った岡部の方が、軍司令官の怒りが爆発するのを恐れて、寺内に退出を願う始末であった。(ちなみに飯田は長州出身の飯田俊助中将の息で寺内とは同郷になる)

そうこうしているうちに

香月中将高血圧のため眼底充血の結果、神経高ぶるを以て更迭を申出であり。(五月二十一日)

前線を視察に行った寺内に対し、香月より上記の申し出があった。渡りに船ということで、五月三十日を以て香月は参謀本部附となり、後任は梅津美治郎となった。

しかし彼の更迭事情には別の話もある。