日野熊蔵伝

兵器発明家にして飛行家日野熊蔵の伝記。幕末、相良藩では保守派と洋学派の間で争いがあり、慶応元年九月二十六日には、守旧派が洋学派の主だった者を上意討ちにする事件(丑歳騒動)が起こった。このとき日野家では物頭二百石取りの当主佐一だけでなく長男とその妻、さらにその三歳の娘の四名が斬られた。生き残った佐一の妻は縁者から養子を取り、家名をつないだ。熊蔵はその子供であるが、父は熊蔵がまだ母の腹にいるうちに疫病で病死した。
熊本には佐々友房の済々黌という有力な学校があったが、熊蔵は済々黌ではなく私学の熊本英学校に進んだ。熊本英学校は徳富猪一郎の大江義塾を前身とする学校で、済々黌とはいわば国権派と民権派で険悪な間柄であった。大江義塾は宮崎寅蔵も学んだ学校である。熊蔵が後年、支那革命に関係するのも偶然ではあるまい。熊蔵の在学中、短い間であったが、内村鑑三も英学校で教授をしている。

陸士を34番で卒業し、歩兵第2連隊では連隊旗手に任じられた。歩兵は陸士の主兵であるが、熊蔵限っては歩兵将校であるということは、その後の人生においてマイナスであった。

熊蔵は25歳のときには既に日野式拳銃を発明して、陸軍技術審査部員となっている。彼はこの日野式拳銃や日野式擲弾を孫文らの革命運動に提供している。友人の上塚周平はこのころの日野について「彼は一個の機械師にあらず。又以て一個理想の人、発明は彼の宇内に於ける人として単に真理に忠なる一端を実現せるもののみ。彼の頭脳に画する処は発明よりも大なる画策あり。其の一端は常に舌端に迸り以て推知すべし。只才気余りに多く、為に万能を欲するの弊あり」と評している。野津道貫日露戦争で第四軍司令官を務めたが、彼は渡満する前、熊蔵の家を訪れたという。そこで何が話し合われたかは分かっていない。

明治四十年、熊蔵は結婚した。相手は恒吉忠道大佐の娘であった。余談だが恒吉の前妻は正岡子規の妹の律であった。二人は二年ほどで離別しているので、熊蔵の妻の母は後妻であろう。

明治四十二年に臨時軍用気球研究委員に任ぜられ、飛行機の研究に入る。翌年には徳川好敏大尉と二人で欧州に派遣された。徳川大尉はフランスで、熊蔵はドイツで飛行術を習得した。徳川好敏は御三卿の一、清水徳川家の嫡男であった。しかし父の篤守が伯爵の爵位を返上していたため、このとき家は無爵であった。父の爵位返上については、明治三十年お茶の水で水商売の女が殺害された事件との関係などが取り沙汰されているが、徳川一門はこの件に関しては口を閉ざしている。いずれにせよ、徳川好敏が飛行将校を志したのには、家門の恥をすすぎたいという思いがあったようだ。二人はそれぞれグラーデ式、アンリファルマン式の飛行機を手土産に帰国した。

明治四十三年十二月十四日、熊蔵のグラーデ式は滑走中に高さ10メートル、距離60メートルを飛んだが、この日は公式の飛行実施日ではなかったので『滑走中の余勢であやまって離陸した』ことにされた。十九日、今度は徳川大尉のファルマン機が最高70メートル、距離3000メートルを飛んだ。同日午後、日野も高さ45メートルで1000メートルを飛んだが、日本最初の飛行という栄誉は、徳川大尉のものとなった。ただでさえ徳川家の御曹司で眉目秀麗な青年将校である。こうなっては熊蔵は彼の陰に隠れるしかない。

熊蔵には、仕事に熱中する余り、来訪した皇族の出迎えにすら出ないようなところがあった。また飛行機の研究に私財をつぎ込み、多額の借財をつくって訴訟を起こされていた。そういった点が陸軍上層の忌憚に触れ、少佐昇進と同時に福岡の歩兵連隊に飛ばされた。