石原莞爾 生涯とその時代 [上]

正直文章的にはも一つで、所々「ん?」と感じます。基本的には石原に関するエピソードの羅列で、失礼を承知で言えば、私がホームページでやってる人国記の超々グレードアップ版という感じです。しかしその参考文献の量が半端じゃないです。従ってどんな人でも、「へ〜」というエピソードがあると思います。石原好きの人は、まあこの一冊(二冊)で満足してしまうのもいいですが、出来れば巻末の文献一覧を辿っていって欲しいです。素人が歴史勉強するには、このやり方が一番だと思います。

それではちょっと面白かった小ネタを摘出してみます。

小学校時代、校長ですら頭を突き出せる窓の格子に、頭が引っかかるくらい巨頭だったため、ついたあだ名が”西洋かぼちゃ”。左下は莞爾と弟の二郎であるが、これを見る限りデカ頭は血統のようだ。右下は成長した二人だが、見ての通りやたら似ている。莞爾だと思って二郎に話しかける人やその逆がいたというのも、肯ける。

  

幼年学校時代、月6円50銭の学費のうち5円は鶴岡尚武会から、残りは鶴岡の素封家の富樫家から借りていた。同期の南部襄吉の父南部次郎は、郷里の育英資金から10円を借り、学費と小遣いとして7円50銭を送り、残りを自分のものしていた。石原も、父が学費の一部を煙草銭か何かに使っているらしいとこぼしていたという。二人の小遣いは同期中最低の1円であった。南部次郎は盛岡藩主の連枝、所謂アジア主義の外交官で、莞爾の中国観にかなりの影響を与えた。次郎も莞爾を高く買い、息子に対し「お前は一生あの人に見捨てられない様にしろ」と言っていた。

中央幼年学校卒業直前、剣術の時間に助教から「真剣勝負」を挑まれた。莞爾は、相手の急所を握って気絶させ、石原は品性下劣と評される一因となった。

士官候補生時代、南部は、小国日本ではどうやっても西洋に勝てないと、軍人に絶望し、植木屋になりたいと莞爾に相談した。莞爾は、陸軍を改正しドイツにでも何でも勝つ陸軍にするために軍人になった、貴様もそれだけの気宇を持たないか!と励ました。しかしその莞爾も後年、中耳炎で入院し、体に自信を無くして、「写真屋になりたい」と漏らしたことがある。このとき入院を嫌がる莞爾に困った父は、今村均に依頼し、今村は駄々をこねる莞爾を無理やり入院させた。

陸大入試の再審で、「機関銃の最も有効な使用法はどうあるべきか」という課題を与えられ、飛行機に装備して、”酔っ払いが歩きながら小便をするように”、”バラバラバラ”と敵の大縦隊に浴びせると答えたことは有名。

下の写真は、メッケルの胸像の前で撮られた陸大卒業記念。前列中央が石原。確信は無いが前列右から二人目が樋口季一郎じゃないか。石原の左隣は何となく、眉目秀麗・弁舌さわやかということで石原を抑えて首席になった鈴木率道のような気がするが自信は無い。後列左から二人目の恰幅のいい人は阿南惟幾か?

武藤章真宗であったが、ベルリンで里見岸雄の講演会を聞いてから、熱心に日蓮を研究するようになった。石原はこれに大変喜び、日本の妻に手紙で、実家の尾野実信大将邸に住む武藤夫人を訪ねるよう依頼している。石原は、武藤は「中々立派な人なる故、此一族を教化することは極めて有効」と考えたのである。

宮沢賢治は石原と同じ国柱会の信行員であった。賢治は『妙法蓮華教』1000部の頒布を遺言したが、頒布先の名簿には石原の名前もあった。賢治の弟清六から石原に送られた本は、第59号であった。

下巻に続く?