死ぬこと

昭和13年10月、蓮田は一度目の出征をしている。彼は戦場で大体次のような事を書いている。

”内地の子供たちから来る慰問文を読むと、「早く蒋介石を殺してください」というようなことが書いてあり、やむを得ないと思いながらもぞっとする。うちの息子は、戦地の父など思い出しもせず遊び呆け、たまにクレヨンで書いた絵を送ってくるくらいだが、私はこれにほっとする。もし私の息子が「蒋介石を殺してください」などと書いてきたら、堪らない気がする。”

また日本武尊

倭は 国のまほろば 畳なづく 青垣山 こもれる 倭し うるはし

という歌の解説に際して、戦場で死に際に「お母さん」と言い残す兵士と通ずるものがあると書いている。よく、兵士たちは「天皇陛下万歳」ではなく「お母さん」と叫んで死ぬと、とくとくと語る人間がいるが、蓮田からすれば、これらみな同義語なのである。

復員してきた蓮田は、昭和16年9月の『文芸文化』に「花ざかりの森」を載せた。作者は当時16歳の三島由紀夫であった。蓮田は三島のことを「われわれ自身の年少者」と呼んだ。

昭和18年4月に軍人会館で行われた日本文学報国会において、蓮田は石川達三を激しく非難した。会で石川が、「われわれ文学者も国策に則って大いに活動しなければならない」と話した直後、登壇した蓮田は、石川を指差し、「石川さんの今の発言には賛同できない」と大喝した。蓮田は、このようなときだからこそ、須佐之男のような「青山は枯山と哭き枯らす」壮大な喚び泣きの文学、慟哭の文学を創造しなければならないと訴えた。その後蓮田は「神がかり」と呼ばれるようになった(この言葉にこめられたニュアンスについては改めて説明不要だろう)。

この年の10月、蓮田は二度目の召集を受けた。大阪で彼を迎えた伊東静雄はこう言った。
「丁度いいときでしたね」
蓮田は応えた。
「大へんなことでした」
今の価値観でいえば、蓮田はどうなるのだろう?狂信的国家主義者?右翼?ファシスト?しかし現実には、昭和18年の日本において、彼の居場所は無かったのだ。親友伊東はその蓮田の苦しみをよく理解していた。

蓮田についての話はここらで終わりにしたい。私自身まだよく考えが纏まらないので。彼について興味をお持ちになった方は、是非ご自分で読んで、そして考えて欲しい。

 


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