麻生大臣と特攻隊

麻生太郎外務大臣が先頃朝日新聞紙上で、靖国神社の非宗教法人化という意見を述べられました。また自身のサイトにも靖国に弥栄あれという題で意見を載せておられます。前半の靖国神社に対する考えは概ね同意です。特に”(2) 靖国神社にとって、「代替施設」はあり得ません。 ”という部分は当にそのとおりだと思います。目先の利益だけ追いかけ、安易に代替施設の建設をなどとほざく恥知らずな輩とはさすがに違います。また本問題の解決法として麻生大臣は、靖国を最終的に国営にし、その過程で合祀の基準も明確に決めるとしています。私はこれはこれで一つの見識だとは思いますが、ベストかどうかは判断が付きません。ただ時間が無いというのは激しく同意です。皆死んでしまい気色の悪い連中ばかりになってからでは、どうしようもないですからね。すでにサヨクはそうなってますね。ウヨクも早晩そうなるでしょう。

麻生氏の靖国私見について
さて話は変わります。麻生太郎氏といえば吉田茂を祖父にもち、三笠宮仁親王殿下は義弟という名家の出ですが、そんな氏にも靖国に眠る親類がおられます。麻生攝郎海軍少尉。麻生太賀吉氏(太郎氏の親父殿)の従弟です。麻生少尉は昭和20年4月29日、第四筑波隊の一員として沖縄に突っ込み戦死しました。少尉は早稲田大学商学部を卒業した予備学生でした。後日母の元に半紙一枚の遺墨が届きました。


少尉はクラシックが好きで、弟妹への遺書には、戦死したならば交響曲のレコードをかけて我が霊を慰めてくれとあったそうです。


 


日本昔話のごんぎつねを見て、懐かしくなって青空文庫で新見南吉の作品を読んでたところ、「手袋を買いに」の中にもありました。
「ねむれ ねむれ
母の胸に、
ねむれ ねむれ
母の手に――」
シューベルトの子守唄。
戦死する将兵が最期に叫ぶのは「天皇陛下万歳」ではなく「お母さん」であるというのは良く聞く話です。
立山英夫歩兵少尉は、支那事変初期の永定河の戦いで戦死しました。少尉に任官されたかどうかという時期で、勿論49期最初の戦死者でした。少尉の内ポケットには母の写真が一葉入っていました。その裏には次のような母への思いが綴られていました。


「お母さん」と24回繰り返すこの文にいたく心打たれたかつての大隊長大江一二三少佐は、少尉の葬儀が営まれる日、次の弔歌を打電しました。

靖国の宮に御霊は鎮まるも
     をりをり帰れ母の夢路に


にほんブログ村 歴史ブログ