言葉のチカラ

「後に続くものを信ず」という言葉は、大戦中、特にその前半に於いて、尤もマスコミを賑わせたフレーズの一つだろう。何せ長谷川一夫主演の映画までつくられたのだから。しかしこの言葉は、これだけ有名にも拘らず、紙では残っていない。それどころか、その出典すら曖昧である。上官の西山遼少佐によれば、ガダルカナル島での最後の別れに際して、中尉が言った言葉の中に

私も私の部下も後に続くものを信じます
死してなお必勝を信じます

という意味の言葉があったという。一方、海軍報道班員だった山形氏は、谷萩那華雄から、若林中尉の日記であるという冊子を示された。それはガ島へのネズミ輸送を行っていた潜水艦の下士官が持ち帰ったものであった。同氏は谷萩に勧められ、この戦場日記を『後に続くものを信ず』という題名で出版した。山形氏によれば、その日記の裏表紙に「私は後に続くものを信ず」と書いてあったという。しかしその日記もまた、その後どうなったかは判らない。とにかくこのフレーズは、時代にマッチし、独り歩きした。そしてその反動で、戦後は忘れ去られた。全く馬鹿げた話だ。

さて反対に戦後、ジャーナリズムに乗ったフレーズとしては、大田少将が打った訣別電「沖縄県民斯く戦えり〜」が挙げられるだろう。この電報一つで大田少将はスターダムにのし上がった(上げられた)。性質の悪い表現をしてるとは、自分でも分かってるが、別に大田少将をどうこういうわけではない。マスコミの下らなさを指摘したいだけだ。訣別電に上下などあるわけが無い。ましてそこで散った人の命おや。

話の矛先を変えるが、訣別電というのはどれも悲しい。サイパン、グアム、硫黄島、ペリリューのサクラ連送。電文ではないが、私が印象深いのは、拉孟守備隊の真鍋大尉が、聯隊長に宛てた手紙。
「小雀がチューチュー鳴いて親雀の帰りを待っております。私共はどんなことがあっても聯隊の名を汚すようなことは致しません」
既に守備隊長金光少佐を失い、玉砕を前にして書かれたその手紙は、脱出を命ぜられた木下中尉によって届けられた。しかし聯隊長松井秀治少将にはどうすることもできなかった。松井少将自身、後にラングーン防衛司令官として、遁走した緬甸方面軍司令部の後始末に非常に苦しむ。戦後、訪ねてきた文春の記者?を前に松井将軍は、今でも雀の声を聞くと思い出す。インパール作戦をもっと早く切り上げておけば、死なせずにすんだものをと、涙に咽んだ。

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